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2011年「世界宣教の日」教皇メッセージ

2012年「世界広報の日(2012年5月13日)」教皇メッセージ

 

 

「沈黙とことば、福音化の歩み」

 

親愛なる兄弟姉妹の皆様

 

 2012年「世界広報の日」を間近に控え、わたしは、人間のコミュニケーションのあり方に関するいくつかの考えを皆様と分かち合いたいと思います。それは、重要でありながら見過ごされがちで、今日、とりわけ思い起こす必要があるように思われる、沈黙とことばについてです。人々の間に真の対話と不快親交を実現させるには、コミュニケーションにおけるこれら二つの側面が均衡を保ち、交互に入れ替わったり補いあったりする必要があります。ことばと沈黙が相いれなければ、混乱や冷たい雰囲気が生じ、コミュニケーションの質が低下します。しかし、お互いに補うならば、コミュニケーションに価値と意味が生じます。

 

 沈黙はコミュニケーションに欠かせない要素です。沈黙がなければ、豊かで内容を伴うことばは存在しえません。沈黙のうちに、わたしたちはよりいっそう自らに耳を傾け、自分自身のことを理解できます。考えがひらめき、深まります。また、自分が何をいいたいのか、他者になにを求めているのかをより明確に認識し、どのように自分自身を表現するかを選びます。わたしたちは沈黙することにより、相手に自分のことを話したり表現したりする機会を与えることが出来ます。また、よく考えずに自分のことばや概念のみにとらわれることも避けられます。こうしてお互いに耳を傾ける余地が生まれ、人間関係を深めることが出来るのです。たとえば、愛し合う人々の間の真のコミュニケーションは、しばしば沈黙のうちに行われます。手ぶり、表情、身ぶりが、お互いに自己表現するためのしるしとなります。喜び、不安、苦しみは皆、無言で伝えることができます。まさに沈黙のうちに、それらは強く表現されるのです。沈黙に感性と傾聴力が伴うとき、さらに積極的なコミュニケーションが生まれ、かかわり合いの真の基準と本質がしばしば明らかにされます。メッセージや情報が氾濫する中、あまり意味のない二次元なものから大切なものを識別する場合に、沈黙は不可欠です。考察を深めることは、一見、無関係と思える出来事の間につながりをみいだし、評価し、意味を分析する助けとなります。こうして、考え抜かれた適切な意見が交換されるうようになり、真正な知識の共有が実現するのです。それには、沈黙、ことば、映像、音声の間の均衡正しく保たれた適切な環境、ある種の「生態系」をはぐくむ必要があります。

 

 今日のコミュニケーションは、おもに答えを求める問いから力を得ています。検索エンジンとソーシャル・ネットワークが、助言、アイディア、情報、答えを求める多くの人々の、コミュニケーションにおける起点となっているのです。現在、インターネットは、問いと答えが行き交う場にさらになりつつあります。現代社会の人々は実に、これまで受けたこともない質問や気づいていなかった要求にこたえたりするよう頻繁に迫られます。真に重要な問いを認め、それに焦点当てる際に、沈黙は貴重なものとなります。わたしたちは沈黙することにより、過剰なしげきとや情報を受けても、それらを適切に識別することができるからです。コミュニケーションの世界がますます複雑化、多様化する中、多くの人が人間存在に関する究極的な問いに直面します。わたしは何者なのか。何を知りうるのか。何をすべきか。何を望みうるのか。このように問う人を迎え入れ、ことばと交流による深遠な対話への可能性を開くことが重要です。さらに、静かに黙想するよう勧めることも大切です。黙想は、しばしば、性急な回答よりも多くを語ります。そして、答えを求める人々を自らの存在の深みへと導き、神によって人間の心の中に刻まれた真理への道を受け入れられるようにするのです。

 

 この絶え間ない問いの流れは、究極的には、人生に意味と希望を与える真理をさまざまな形で求めずにはいられない人間の本質を表します。人間は、懐疑的見解や人生経験を表面的、盲目的にやりとりすることには満足できません。わたしたちは皆、真理を求めます。そして今日、この心底からの願いをこれまで以上に共有しているのです。「情報を交換するとき、人はすでに自分自身、自分の世界観、希望、理想を共有しています」(教皇ベネディクト十六世、2011年「世界広報の日」メッセージ)

 

 あらゆる種類のウェブサイト、アプリケーション、ソーシャル・ネットワークに注意を払うべきです。それらは、現代人が考え、真の問いを発する時間を得るのに役立つだけではなく、沈黙するための余地や、祈り、黙想、神のことばの分かち合いのための機会を生む出すのを助けるからです。対話する者同士が自分の内面を深めることを怠らなければ、深遠な思想も聖書の一節ほどの短い表現で伝えることができます。さまざまな宗教において、孤独と沈黙が、自分自身を再認識し、すべてのものに意味を与える真理を再発見するのに役立つ特別な状態と考えられているのも当然です。聖書においてご自分を啓示される神は、ことばを通さずにも語られます。「キリストの十字架が示すとおり、神はご自身の沈黙を通しても語ります。神の沈黙、すなわち、全能の父と引き離された体験は、受肉したみことばである神の子が歩んだ、地上の旅路の決定的な時です。・・・・・神の沈黙はそれまでに語られた神のことばの延長です。神はこれらの暗闇の時の中で、ご自身の沈黙の神秘を通して語られます」(教皇ベネディクト十六世使徒的勧告『主のことば』21)。最高のたまものに至るまで実践された神の愛が、十字架の沈黙を通して豊かに語られます。キリストの死後、地上は大いなる沈黙に包まれました。そして聖土曜日には、「王が眠り、神が肉体において眠りにつかれ、世々の昔から眠りについていた人々を立ち上がらせたのです。」(教会の祈り「聖土曜日の読書課、第二朗読」参照)。人間への愛に満ちて、神の声が響き渡ります。

 

 神は沈黙のうちにもわたしたちに語りかけられておられるのですから、わたしたちも、沈黙のうちに神と会話したり、神について語ったりすることができます。「この沈黙は観想となります。それはわたしたちを神の沈黙へと導き、そして、みことばが、すなわちわたしたちをあがなうみことばが生まれたところへとわたしたちを伴います」(教皇ベネディクト十六世、「国際神学委員会総会閉会ミサ説教」、2006年10月6日)。わたしたちのことばは、いかなる場合も、神の偉大さを語るには不十分です。したがって、静かな観想の時を設ける必要があります。観想は、その内に秘めたすべての力によって、すぐにでも福音を告げ知らせたいという思いを湧き上がらせます。すべての人が神と一致する為に「わたしたちが見、また聞いたことを伝える」(-ヨハネ1・3参照)という義務が切実なものとなるのです。わたしたちは、観想によって、愛であるかた、わたしたちの心を他者に向けるかたの源に浸されます。こうして、わたしたちは、他者の苦しみを感じ、キリストの光、キリストのいのちのことば、キリストの愛に満ちた救いのたまものを隣人に知らせることができるのです。

 

 静かに観想するとき、世界を創造された永遠のみことばが、よりいっそう力強く現存します。そして、わたしたちは、神が歴史を通してことばと行いによって実現しておられる救いの計画に気づくのです。第二バチカン公会議は伝えます。神の啓示は「互いに密接に関係したわざとことばをもってなされた。そのための救いの歴史において神から遂行されたわざは、教えとことばの意味を明らかに証明した。そして、ことばはわざを表示し、その中に含まれている秘義を明らかにする」(第二バチカン公会議『神の啓示に関する教義憲章』2)。この救いの計画は、仲介者であり、全啓示の充満であるナザレのイエスにおいて頂点に達します。イエスは父なる神の真の姿をわたしたちに伝え、十字架と復活によって、わたしたちを、罪と死の奴隷状態から開放し、神の子としての自由をもたらしてくださいました。人間存在に意味に関する根本的な問いは、キリストの神秘の内にその答えを見いだします。それは満たされることのない人間の心に平和をもたらすことのできる答えです。教会の使命はこの神秘から生じます。キリスト者は、まさにこの神秘により、希望と救いの使者となるよう、また、人間の尊厳を促進し、正義と平和を築くあかし人となるよう駆り立てられるのです。

 

 ことばと沈黙。コミュニケーションのあり方を学ぶとは、話すことだけでなく、聞き、考えることを学ぶことです。このことは、福音化のために働く人にとってとりわけ重要です。沈黙とことばは両者とも、現代社会にキリストを新たに告げ知らせるための教会の広報活動にとって欠かせない非常に重要な要素なのです。わたしは、沈黙によって「みことばに耳を傾け、みことばを花咲かせた」(教皇ベネディクト十六世、巡礼地ロレトでの祈り、2007年9月1日)マリアに、広報手段を通して教会にが行う福音化のためのすべての活動を委ねます。

 

 

バチカンにて

2012年1月24日

聖フランシスコ・サレジオの祝日

(カトリック中央協議会事務局訳)

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/sc/12sc.htm

 

 

 

2011年「世界宣教の日」教皇メッセージ

 

 

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)

 

 キリスト紀元の新たな千年期が始まろうとする2000年の大聖年に、尊敬すべき教皇ヨハネ・パウロ二世は、「初期のキリスト者の特徴であった熱 情」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新千年期の初めに』58)にわたしたち一人ひとりがあずかり、福音をすべての人に告げ知らせる決意を新たにする 必要があることを力強く再確認しました。
福音をのべ伝えることは、人類に、どのように生を全うするかを真剣に追い求めるすべての人に、教会が提供できるもっとも尊い奉仕です。毎年、「世界宣教 の日」を祝うたびに、その奉仕への招きが繰り返されます。福音をたえず告げ知らせることにより、教会も活気づき、同時に、教会の熱意や使徒的精神も活性化 するのです。また、福音宣教は司牧の方法を刷新し、新しい状況-新たな福音化が必要とされるような状況-に司牧の方法をよりよく適応させ、宣教への熱意に よって活力を得させるのです。「宣教活動は教会を刷新し、キリスト者の信仰と自覚とを活性化し、新鮮な意気込みと新しい刺激を与えるからです。信仰は、他 者に伝えられるときに強められます。教会のこの普遍的使命に献身することにおいてこそ、キリスト者の新たな福音化は励ましと支えを見いだすのです」(教皇 ヨハネ・パウロ二世回勅『救い主の使命』2)。

 

行って告げ知らせなさい

 

 「行って告げ知らせなさい」。このことは、典礼祭儀においてたえず繰り返されています。とりわけ感謝の祭儀の締めくくりには、復活したイエスが弟子たちに与えた「行きなさい……」(マタイ28・19参照) という命令がつねに響き渡ります。典礼はいつでも、神のことばの救いの力、キリストの過越の神秘の救いの力といった、わたしたちが経験してきたことがらをあかしするための「世界からの」呼びかけであり、「世界における」新たな宣教への招きなのです。
復活した主に出会った人は皆、エマオの二人の弟子のように、そのできごとを他者に告げ知らせる必要を感じます。パンを裂いてくださったときに主だと分かった後、彼らは時を移さず出発して、エルサレムに戻りました。そして、十一人の弟子が集まっているのを見て、自分たちに道中で起こったことを知らせたのです(ルカ24・33−35参照)。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、いつも目覚めていて、主のみ顔を認め、「主を見た」という喜びの知らせを皆に伝えるために駆け出す用意をするよう、信者を促しました(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新千年期の初めに』59参照)。

 

すべての人に

 

 福音の宣教はすべての人に向けられています。教会は「その本性上、宣教することを使命とする。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源をもっているからである」(第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』2)。
「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざしたもっとも特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています」(教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』14)。したがって、教会は決して自らの中に閉じこもることはできません。教会が特定の場所に根をおろすのは、さらに遠くへ行くためです。キリストのことばに従い、聖霊の恵みと愛に動かされた教会の活動は、キリストへの信仰に人々を導くために、すべての人とすべての国民の前に全き姿をもって現存するものとなるのです(第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』5参照)。
この責務はいまだその緊急性を失っていません。実に「教会にゆだねられている救い主の使命は、その成就からはほど遠い状態にあります。……人類全体を見わたすと、この使命はまだ始まったばかりであり、わたしたちはこの使命を果たすために、全力でかかわらなければならないことが分かります」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『救い主の使命』1)。2000年が経過しても、キリストを知らず、その救いの知らせを一度も聞いたことがない人々がいることを思い、平然としていることはできません。
そればかりでなく、福音を告げ知らされたにもかかわらず、それを忘れたり放棄したりして、もはや教会に属していることを認めない人が増えています。また、現代における多くの状況において、伝統的なキリスト教社会の中ですら、人々は信仰のことばに自分自身を開こうとしません。グローバリゼーション、さまざまな思想、相対主義の蔓延によって、文化には変化が起きています。その変化によって、あたかも神は存在しないかのように、福音のメッセージを無視し、道徳的価値を損なっても、よい暮らし、高収入、出世、成功を人生の目的として追求するよう促す考え方やライフスタイルが生じているのです。

 

すべての人の共同責任

 

 宣教は普遍的なもので、あらゆる人、あらゆる物、あらゆる時に及びます。福音は受けた人だけのものではなく、分かち合うべきたまものであり、伝えるべきよい知らせです。このたまものへの献身は、限られた人だけでなく、むしろ「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(一ペトロ 2・9)であるすべての信者に、主の偉大な行いを宣言するよう託されています。
すべての活動は福音宣教と関連しています。世界における教会の福音化活動に注意を払い、協力することは、一時的な、あるいは特別な機会だけに限られるものでもなく、数多くの司牧活動の中の一つと考えられるものでもありません。宣教は教会にとって本質的な要素であり、つねに心に留めなければならないことです。
洗礼を受けた一人ひとりと教会共同体全体は、散発的、一時的ではなく、信者としての生活の一環として、たえず宣教にかかわることが重要です。「世界宣教の日」は、一年に一度、その時だけではなく、宣教という召命にどのようにこたえるかについて立ち止まって考え、思いめぐらすための貴重な機会です。宣教という召命は、教会生活にとって不可欠な応答なのです。

 

世界の福音化

 

 福音化は複雑なプロセスであり、さまざまな要素を伴います。その中でも宣教の活性化においては、連帯に特別な注意が払われてきました。連帯も「世界宣教の日」の目的の一つです。この日には、教皇庁宣教援助事業を通して、宣教地で福音化のための責務を果たしていくための支援が求められます。それは、教会を築き、強固なものとするのに必要な諸機関を、カテキスタ、神学校、司祭を通して支援することであり、また貧困、栄養不良、とりわけ児童の栄養不良、疾病、医療や教育の欠如という深刻な事態に陥っている国の人々の生活水準を改善するために、わたしたち一人ひとりが自分にできる貢献をすることです。
こうしたこともまた教会の使命です。福音をのべ伝えるとき、教会は人間の生活を余すところなく温かく受け入れます。神のしもべ教皇パウロ六世は次のように再確認しました。福音化において、人類の進歩、正義、あらゆる種類の抑圧からの解放にかかわる分野を無視することは許されるべきではありません。また、政治の領域の自律は、言うまでもなく尊重されるべきです。
人間の現実的な問題に対する配慮がなければ、「苦しみ困っている隣人に対してもつべき愛に関する福音の教説が無視され」(教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』31、34)ます。それは、「町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音をのべ伝え、ありとあらゆる病気やわずらいをいやされた」(マタイ 9・35)イエスの行いと一致しません。
したがって、キリスト者は、教会の使命に共同責任をもって参加することを通して、キリストから与えられた交わりと平和と連帯のつくり手となり、すべての人に向けられた神の救いの計画を実践するためにともに働くのです。この計画が直面する課題は、すべてのキリスト者がともに歩むことを要求しています。宣教は皆とともに歩むこの旅路に欠かすことができません。その道のりにおいて、わたしたちはそれを土の器に納めながらも、福音のはかりしれない宝であるキリスト者としての召命を生きます。死んで復活し、わたしたちが教会で出会い、信じているイエスの生きたあかし人となるのです。
「世界宣教の日」が、すべての人にキリストをもたらすために人に会いに「行く」という願いと喜びを、各人のうちに目覚めさせますように。キリストの名において、わたしは使徒的祝福を皆様、とりわけ福音のために尽力し、苦労されている方々に送ります。

 

2011年1月6日 主の公現の祭日
バチカンにて
教皇ベネディクト十六世

(教皇庁宣教援助事業・日本事務担当訳)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/mssn/11mssn.htm

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